小林一三(こばやし いちぞう)記念館に行ったことを書こうと思ったのですが、その前に小林一三さんについて書かなきゃと思ったので、書いています。
小林一三(こばやし いちぞう)さんは阪急電鉄、阪急百貨店、宝塚歌劇、東宝などのいわゆる阪急グループの創始者というだけではなく、私たちが分譲で家を買えるのも、小林一三さんが分割払いで買うという方法で分譲住宅の販売をはじめたから。
足を向けては寝れない人です。
それだけではなく、最初に努めた銀行では冷遇されたり、転職先の倒産で妻子を抱えて失業したり、電鉄設立時には出資者たちの猛反対を1人で説得して回ったりと、不遇や困難に負けることなく、破格の努力の人でした。
小林一三(こばやし いちぞう)さんについて
小林一三(こばやし いちぞう)さんは、阪急電鉄、宝塚歌劇、阪急百貨店、東宝などの阪急阪神東宝グループの創始者なんですが、何もないところに電車を通すくだりや、電車に乗るお客さんを増やすために沿線に住宅地や観光地を作ってしまうとか、出資者がみんな反対する中で説得していくくだりとかもすごいんですが、これだけの業績を残した人が、20代~30代では理不尽なめに会ってたりして、NHKの朝の連ドラ小説のモデルになればいいのに、この人でドラマを制作したら絶対おもしろくなるのに、と思っちゃう人です。
生い立ち
1873年(明治6年)山梨県の商家に生まれました。
生まれてすぐ母親は亡くなり、父親とも生き別れになった小林一三は、おじ夫婦に引き取られます。
1888年(明治21年)に、福沢諭吉が塾長を務める慶應義塾に入ります。
不遇な20代と30代
1892年(明治25年)慶応義塾を卒業した小林一三は、三井銀行(現在の三井住友銀行)に勤務。
ところが、この三井銀行では、使えない社員とみなされ冷遇されます。
そんな中でも、東京本店の調査課主任まで昇進。
小林一三はもともと小説家志望でしたが、銀行の先輩の話などを聞いて事業に興味を持つようになります。
34歳のとき三井銀行を退職。
かつての上司や知人に誘われて、新しく設立される証券会社の支配人になるため大阪へ引っ越しますが、恐慌によって証券会社設立は中止となり、小林一三は大阪で妻子を抱えたまま失業します。
失業しても負けない小林一三
1907年、電鉄事業は有望だと判断した小林一三は、別の銀行を設立していた三井銀行時代の先輩を説得。
株式を引き受けさせるなどして、1907年(明治40年)に、箕面有馬電気軌道(現在の阪急宝塚線と箕面線)を創立しました。
この箕面有馬電気軌道設立に関しては、1度設立しかけていたのに恐慌やら、
「あんな何もないところに電車を通しても、誰も乗るはずがない」
などの意見で頓挫しそうになっていたところに、小林一三が
「借金は全部、自分が引き受ける」
みたいな誓約書を書いて、男気を見せるわけです。
このあたりの顛末は、小林一三記念館に行くと詳しい展示を見ることができます。
ここまででも小林一三という人に十分ホレますが、箕面有馬電気軌道設立以降の小林一三が、またすごいんです!
(こんなすごい人、偉い人に「ホレる」なんて軽い言葉を使ってもええんやろか、「小林一三」なんて呼び捨てで書いて許されるんやろか、と思いつつ。。。。)
電車の収益を上げるための、集客のアイディアと実行力がすごい!
1920年(大正9)年には神戸線が開通し、社名も「阪神急行電鉄」と改め、「阪急電車」という名称が定着します。
ここからの小林一三の、集客のためのアイディアと実行力がすごいんです。
サラリーマンでも家が買えるようになったのは、小林一三のおかげ
線路が通過する予定の沿線の土地を買収。
郊外となるその沿線の土地で宅地開発をおこない、1910年(明治43年)より分譲住宅の販売をはじめます。
この分譲住宅は、当時はまだ珍しかった分割払いで購入できる大衆向けの住宅で、サラリーマンでも購入できるものでした。
こうして沿線予定地に住宅を持たせ、勤務地まで電車を使わせるようにしたのです。
うまい!
お金持ちはハイヤーだから電車に乗らないし、電車を使うのはサラリーマンだから、サラリーマンに沿線に住んでもらうという発想。
発想もすごいけど、この時代にこれだけのことを実行したのもすごいです。
みんなが電車に乗るように、行きたい場所を作る
1910年(明治43年)には箕面に動物園、1911年(明治44年には)宝塚新温泉、1914年(大正3年)には宝塚歌劇団の前身、宝塚唱歌隊などを創立し、阪急沿線を賑やかにしていきます。
1929年(昭和4年)に梅田に阪急百貨店を開業。
そこでは大食堂の洋食が大人気となります。
東京急行電鉄を無償で経営し、電鉄運営の手法を伝授
1918年(大正7年)、田園調布を開発した田園都市株式会社(東京急行電鉄の前身)の経営を、小林一三は引き受けていました。
それも、小林一三の名前を出さない、報酬は受け取らない、関わるのは日曜日のみという条件で。
目黒蒲田電鉄や東京横浜電鉄など、田園都市株式会社から派生した電鉄会社は、沿線の宅地開発や、娯楽施設やデパートを作って乗客を増やす手法など、小林一三のやり方を実践しています。
こういった小林一三さんの功績が認められて、設備などが必要以上に作られるなど放漫経営になっていた東京電燈(現在の東京電力)に招かれ経営を立て直したり、1940年(昭和15年)には商工大臣、戦後には戦災復興院総裁に任命されるなど、政治家としても活動しました。
すごい人です。
絶対、NHKの朝の連ドラ向きだと思います。
小林一三さんを主役にしたら、絶対おもしろいドラマになると思うのですが。
小林一三さん役には、高橋一生さんなんていいんじゃないかと思うのですが。。。。
ちなみに元テニス選手で、現在は「応援するのが僕の仕事」ともおっしゃっている松岡修造さんは小林一三さんのひ孫です。
すごい人のひ孫は、やっぱりすごい。
すごくなる血が受け継がれているのでしょうか。。。。
小林一記念館については、こちらに書きました。